おいしさは、本来もっと複雑なものだったはずです。
それにもかかわらず、私たちはいつの間にか「美味しい」という反応を、あまりに軽く扱うようになりました。 甘い、しょっぱい、濃い、薄い。 好みか、そうでないか。 値段に見合うか、見合わないか。
そうした判断が先に立ち、味わう前に、評価が終わっている。 この状態を「味覚の問題」と片づけてしまうのは簡単ですが、私はむしろ、霊性の感度の問題として見ています。
味わう前に「評価」が終わっていないか
何かを購入するとき、私たちはお金を支払います。 お金とは交換手段である以前に、自分が持っていた可能性や選択肢を手放すとも言えるでしょう。 つまり、お金を使うということは、エネルギーを消費することに他なりません。
一方で、自分で料理をする場合。ここでは別の種類のエネルギーが使われます。 時間。集中力。手を動かすという行為そのもの。
プロの味ではないかもしれない。効率も、再現性も低い。 それでも、そこには確実に自分のエネルギーが注がれている。
美味しさの本質は「エネルギーの循環」にある
その料理を「おいしい」と感じるとき、人は単に味覚で反応しているのではありません。 自分が消費したエネルギーを、自分自身が受け取っている。 この循環が起きたとき、おいしさはただの刺激ではなく、身体に残る体験へと変わります。
人からもらった食べものが、なぜ特別に感じられるのか。 それは、そこに作った人の思い、時間、気遣いが含まれているからです。 そして受け取る側にも、「ありがとう」という感情が生まれる。
このとき起きているのは、エネルギーの一方通行ではありません。 循環です。 だから、同じ味でもひとしお美味しく感じられる。
心に余白がないとき、食は「情報」に成り下がる
しかし、この構造は常に機能するわけではありません。 心に余白がないとき、人はエネルギーを感じ取れません。
忙しさ。焦り。結果を知りたがる思考。 それらで内側が埋め尽くされているとき、食べものは情報として処理されます。 「美味しい」。それで終わる。それ以上、何も残らない。
これは「味わった」というよりも、条件反射として刺激に反応しただけと言った方が正確かもしれません。
判断を止め、立ち止まって受け取る
味わうという行為は、何かを足すことではありません。 むしろ逆です。
判断を止める。 意味づけを止める。 評価を保留する。
そうして初めて、人はエネルギーを受け取れる位置に戻ります。
霊性とは、感度を取り戻すための「余白」のこと
霊性とは、特別な能力ではありません。上の次元に行くことでもありません。 感じ取れる状態に戻ること。それだけです。
おいしさが増えたわけではありません。エネルギーが新しく生まれたわけでもありません。 ただ、こちら側の状態が変わった。 それだけで、食は深みを持ち、言葉は重さを帯び、日常は別の層を見せ始めます。
仕事も、判断も、運の読みも、すべて同じ構造の上にあります。 どれだけ価値のあるものでも、受け取る余白がなければ、それはただ消費されて終わる。
おいしさが条件反射になっていると感じたなら、それは感度が失われたのではなく、余白が閉じているだけなのかもしれません。

