「自分に素直に生きよう」
「正直であればいい」
こうした言葉は、一見するととても健やかに聞こえます。
けれど現実には、「素直さ」と「感情のままに振る舞うこと」が
混同されてしまう場面も少なくありません。
- 思ったことをそのまま言う
- 不満を我慢せずに吐き出す
- 感情に正直であることを肯定する
それらは本当に、
「素直さ」なのでしょうか。
古事記に描かれる
須佐之男命(すさのおのみこと)の物語は、
この問いに対して、とても厳しい答えを示しています。
素直さは「感情に従うこと」ではない
一般的に言われる素直さは、
「本音を隠さないこと」
「自分を偽らないこと」
として理解されがちです。
もちろん、
自分の感情に気づくことは大切です。
しかし神道的な視点では、
感情に気づくことと感情に従って動くことは、
はっきりと区別されます。
感情は、そのまま外に出すためにあるものではありません。
感情は、
自分の状態を知らせるためのサインです。
須佐之男の物語は、この違いを極端なかたちで私たちに示しています。
須佐之男命が抱えていたもの
須佐之男は、伊邪那岐命から
「海原を治めよ」と命じられます。
けれど彼はその命に従わず、
亡き母を想って泣き続けました。
この時点で、
須佐之男は「感情に素直」だったとも言えます。
悲しみを抑えず、自分の内側に正直だった。
しかし須佐之男は、
その感情をどう扱うかを選びませんでした。
高天原で起きたことが示しているもの
須佐之男は、
姉である天照大神に会うため高天原へ向かいます。
表向きの理由は「別れの挨拶」。
けれど結果として彼は、
- 田畑を荒らし
- 神殿を壊し
- 秩序を乱す
という振る舞いを重ねます。
須佐之男は、嘘をついていたわけではありません。
ただ、自分の感情の置きどころを見失っていた。
その結果、
世界そのものが混乱し、
天岩戸という出来事へとつながっていきます。
不平不満と「素直さ」の決定的な違い
須佐之男の姿から見えてくるのは、
この一点です。
素直さとは、
感情を外に出すことではない。
本当の素直さとは、
- 自分の感情を認めること
- その感情を抱えたまま、どう在るかを選ぶこと
- 周囲との関係性の中で、位置を取り直すこと
一方、不平不満とは、
- 感情をそのまま外に投げること
- その結果を引き受けないこと
- 世界との関係を壊してしまうこと
須佐之男は、
最初はこの違いを理解できていなかったのだと思います。
神道が大切にする「和」という視点
神道では、
「和(わ)」を最も重要な価値観として捉えています。
これは、
我慢や自己犠牲ではありません。
全体の流れの中で、
自分の位置を見失わないこと。
須佐之男は、
高天原を追われたあと、
出雲の地でまったく違う姿を見せます。
ヤマタノオロチ退治。
それは力の誇示ではなく、
状況を見極め、
役割を引き受けた「素直な行い」でした。
彼はここで初めて、
感情を振り回す存在から、
世界と関わる存在へと変わっていきます。
「禊」が意味しているもの
須佐之男の物語には、
禊(みそぎ)の思想が重なります。
禊とは、
感情を消すことではありません。
乱れた状態を、
元の位置に戻すこと。
怒りも、悲しみも、迷いも、
あってはいけないものではない。
ただ、そのまま動けば、
世界との関係が歪む。
だから一度立ち止まり、
整え直す。
それが神道的な素直さです。
「自分に素直になる」という言葉を、もう一度考える
自分に素直になるとは、
- 何でも言うこと
- 感情を優先すること
ではありません。
自分の内側を見失わず、
外の世界とも関係を結び直すこと。
須佐之男は、その失敗とやり直しを通して、
それを体現した神様だったと言えるでしょう。
霊性は、特別な性質ではありません
神道が語る霊性とは、
能力でも、特別な感覚でもありません。
- 感情に飲み込まれないこと
- 自分の位置に戻れること
- 世界との距離を調整できること
その自分を律する力こそが、霊性でした。
須佐之男の物語は、
今を生きる私たちにも、
同じ問いを投げかけています。

